2019-11-08

Rockとパイセン

昭和40年代、万博が大阪で開催され日本は高度成長期のまっただなか。まだお茶の間というものが普通にあり、テレビはその中心であった。

 

テレビでは日曜映画劇場で淀川長治が人気を博し、水曜ロードショー、金曜ロードショー、さらにNHKの映画番組など映画館に行かなくても、お茶の間で家族一緒に映画を見る機会がまだまだたくさんあったのだ。

 

小学校の高学年になれば映画を鑑賞できる能力は十分にあり、僕はテレビで放映される映画を楽しみにしていた。

ドクトルジバゴ、フェリーニの道、シェーン、ひまわり、望郷、外人部隊、椿三十郎、七人の侍など、今もなお名作と呼ばれる映画の多くが、お茶の間で放送され数々のストーリーとシーン、そしてまだ無垢だった幼い心の中にたくさんの感動が刻み込まれた。

 

そして10歳のある夜、何気なく見ていた映画の音楽に強烈な快感を覚えた。

その夜、見ていた映画はビートルズの「HELP」。

 

 

「HELP」は映画「ヘルプ、4人はアイドル」のオープニングナンバーでレノン、マッカートニーの作曲、プロデュースはジョージ マーティンによる2分強の短い曲で「ローリングストーン誌が選ぶオールタイムグレイテストソング500」の29位にランクされた名曲。

 

イントロはなく「Help!」という叫び声で始まり次々に高速で展開し、高揚感を伴う極めてコンセプチュアルなナンバーである。

 

僕が最も驚いたことは、音楽がデザインされていたことだ。

 

むしろ音楽が持つ官能生よりもデザインされたものに対する感性が呼応した瞬間でもあった。

僕は母親に懇願し、レコードショップでビートルズのアルバムを買ってもらった。

映画で見たというおぼろげな言葉をもとに、店員は僕の要望とは異なったアルバムを手渡してくれた。

のちに数千枚に及ぶレコードコレクション第一号はその時、間違って渡された「Let It Be」であった。

 

「HEIP」を手にしたのは、後にビートルズ好きの近所のお姉さんから贈られたクリスマスプレゼントである。

 

フィルムコンサートに行ったりしながら2年余りでビートルズを僕ほぼ制覇し、すっかり床屋にも行かなくなった。

小学校を卒業する頃にはボブ ディラン、渡辺貞夫、マイルス デェイビス、父の影響もありジョン コルトレーンなどを聴いていた。

 

自営業で父や母が忙しかったので、イソノテルオやタモリが司会をしていた神戸ジャズフェスティバルや由紀さおりのコンサートに、まだ鼻を垂らしていた弟と二人で出掛けたものだ。

神戸ジャズフェスティバルには山下洋輔も出ていてラッパズボンに丸坊主、ピアノを弾くというよりはむしろ叩きまくると行った有様は小学生にはあまりにも強烈な印象だった。

そして、家に帰れば高橋信夫が鬼の形相で、叫び声をあげながら絵を描いていた。

 

それが、我が家の普通だったのだ。

 

 

やがて中学生になり僕は長い髪をすっぱりと切って丸坊主になった。神戸では当時中学生は丸坊主と決められていたが山下洋輔を見ていたので何の抵抗もなく髪を切った。

 

間も無く中学校に入学した。

そして運動部に入れという父の言葉。

「一番はいりたくないクラブはなんだ?」というので「バレー部だ。」と行ったらバレー部に入れられた。

だが、バレーボールは意外に楽しくて、塾とスポーツに一年ほど平穏無事に明け暮れたある日、どのような経緯かは知らないがある日、我が家に家庭教師がやってきた。

 

家庭教師は何と「八浪」というかなりの猛者で受験勉強の傍、プロレスの警備員や怪しいアルバイトをしながら女の子と同棲生活もしていた。

親父は最初から勉強のことなど頭の中になかったのであろう。

勉学の先生というより「人生のパイセン」と呼ぶべきか、八浪家庭教師はクリスマスイブ、一枚のレコードをプレゼントに僕に手渡した。

 

そのアルバムこそ The Rolling Stones の「 Let It Bleed」

30センチ四方の薄っぺらい塩ビの板切れがも人生を変えたのである。

Rock との出会いである。

 

 

Rockは音楽だけを指すのではなく、それを中心としてライフスタイルで、多感な青春時代浴びるほどRockを聞くことで脳の神経回路に多くのRock回路ができてしまい、それがのちの人生に最も大きな影響を及ぼすものであることは、あれから40年以上経った今では確信できる事実であるのだ。

その後、浴びるほどRock を聴き、難聴にもなったほどだ。

ベルベットアンダーグラウンド、ジェファーソンエアプレイン、ルーリード、チャックベリー、セックスピストルズ、クラッシュ、勉強などそっちのけでたくさんのデタラメなパイセンに会いにレコードショップに足を運んだ。

 

今はもうないが三宮センター街に星電社という家電の店があり、その南あたりに輸入盤の専門店があった様に記憶しているが定かではない。

輸入盤はその独特な匂いも伴って、海の向こうからやってくる僕たちをワクワクさせてくれるカルチャーそのものであった。

 

明治期に居留地として開港以来、ジャズやコーヒー、映画や料理などが神戸に上陸したが、戦後の西洋のライフスタイルに続きカウンターカルチャーが神戸にも上陸した。

 

カウンターカルチャーなどというものはそもそも真面目に学ぶのではなく、多くの場合、近所の「アホなパイセン」から教えられるものであった。

 

それから30年余り時間が過ぎ去り、数年前に件の家庭教師に会うことができた。

「八浪パイセン」はジャケットを羽織り今では至極まともな歯科医となっていた。

 

一緒にメシを食いながら当時の話や今の身の上を話したが、当時教えてくれた方程式や因数分解、前置詞の使い方よりも、「もっともっと大きなことを伝えてくれて感謝しています。」と言ったら「そうかね?」とニヤニヤしていた。

 

翻って考えると僕自身も人に何かを伝えようとしていても、よくも悪しきも全く違ったものが作用して人の一生に大きな影響を与えるとも考えられる。

 

そう思うと、縁とは本当に不思議なものだと思う。

しかしながら、人と人との縁があってもそのDNAの型にハマらなければ縁は消滅し縁起とはならない。

人知らずして人生は大きく変化するチャンスに満ち溢れている。

 

学校の先生よりもたくさんの「アホなパイセン」からの影響の方が圧倒的に人生にとって有意義だ。

 

人生の醍醐味は、学校では学べないものだ。

 

のちの親父の言葉。

「人生は好きなことを死ぬほどするためにあるのだ。」と。

 

 

 

 

 

 

 

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