2019-11-04

人生、2度目の春

 

 

 

人生50年と言われてきたが、医療と栄養状態の改善で今や人生80年が当たり前の時代になった。

 

青春と言われる時代で多くの人は仕事を見つけ、社会の一員として仕事に没頭し大人になる。

自分自身の生涯を省みて、おそらく厄年と言われる42歳あたりに一度人生の成熟期を迎え社会に対しての発言権と影響力をものにする。

細野晴臣氏が書籍の中で42歳なった時大人になったという実感が強くあったとどこかに記述していたが、自分自身でもその年代が最もよく働き仕事の面でも充実していたという実感がある。

そしてその年齢を超えると脳の神経回路が複雑化して、複数の今までには無かった複数の回路系列を脳は再構築するのであろう。

政治的能力が高年齢の方が高いのはこのかもしれない。

かたや司馬遼太郎は40歳を超えると狂人になるとも書いている。

 

良くも悪くも50歳あたりで今までと異なったことに、複数個用意された神経回路が反応をする兆しが見えてくる。

その結果、今までとは異なった事に挑戦したい気持ちが生まれ「人生における2度目の春」がやってくるのだ。

 

僕の場合は、2度目の春の扉を開いたのは、当時日本中に50あまりの店舗を有したフロレスタというネイチャードーナツのフランチャイズを営む組織が新たな取り組みとして企画していたカフェの設計。

そして時を同じくして依頼されたミシェラン3つ星レストラン、カ セントの設計であった。

 

他力であるのか自力であるのかはわからないが、仕事というものは自分自身の強い欲求に従ったものが用意されるものである。

 

初めてカ セントの福本伸也シェフに会った時の印象はおそろしく眼力の強い人だな思ったが、その料理を食べて感じたのは感動をはるかに通り越した「恐怖感」であった。

この様な恐ろしい料理を作る人がこの世の中に存在するなど、ここの料理を食べるまで一度も感じたことはなかった。

 

 

パーフェクトなバランス、技量、そして何よりも驚いたのは複数の複雑な味覚を瞬時にまとめあげる強烈なクリエイション。

福本氏は脳が完全に味覚に対しての強力な偏差を持った紛れもない天才であり、圧倒的な能力の前に何よりも自分が料理人でなくてよかったというのが正直な実感であった。

 

自分の脳の偏差に気づき鍛錬し誰もが到達のできない領域の料理を目の当たりにした驚きは、僕の後の人生を変える大きな原動力となったのだ。

これがきっかけで、僕はフロレスタの経営陣に新しいカフェは設計だけではなくコンセプトやメニューなど全てを設計させてほしいとうったえた。

そのコンセプトは「カ セントと同様のポテンシャルを持つファミリーレストラン。」の設計であったが紆余曲折はもちろんあったのだが最終的に面白いということで一任された。

 

第二の春が始まったのかもしれないというおぼろげな予感。

 

当時のカセントの客単価は2万円から3万円であったが、その10分の1の客単価で料理を提供するという無謀なものであった。

カ セントはミシェラン星付きというガストロノミーの最先端だがその内在するシステムとフィロソフィーを解体し、自然派料理という名の下に「子供達の未来に対する食文化を再構築する」という意味を込めて50席あまりのレストランを「コドモ」と名付けた。

 

同時期同じ敷地内で進行していたドコモの店舗との関係で設計は急ピッチで施工することを強いられ、3ヶ月という短い工期で当時新しく法的に認められた「木造耐火」という工法を採用し「コドモ」は完成した。

ローコストであったため、極めてシンプルな構造と素材を用いて大きな空間の中に堀尾貞治さんに縦1.8m、横4mの大きなタブローを描いていただきレストランの空間に配置した。僕は常々、空間というものの中にアートを配置することで完成するといった手法を試してきた。

 

設計段階で作成したCG。木造校舎をイメージた木造耐火建築物。

 

店は出来上がり、次に具体的なコンセプトと料理のメニューを作り上げる事に取りかかったが、それより以前にシェフを探し出すのに苦労した。

そもそも店のコンセプトは自然派料理やオーガニックに呼応するシンクタンクとしての要素が大きなウエイトを占めているので、面接したシェフに料理に対する哲学を聞いたのだがまともに返答できる者そもそもいない。

当時ブルータスに掲載されたカリフォルニアのアリス ウォーターズ率いるシェパニーズを参考にしていたので、料理はメニューが先にあるのではなく、素材を見てから考えるというものであった。

だがそれを実現できるシェフは皆無であった。日本ではメニューと材料原価は先に決められているのであり、さらに料理のカテゴリーはフレンチ、イタリアン、和食など優秀とされればされるほど、見たこともない料理を作れなどという要望は簡単に容認できるものでは無かったもであろう。誰もが自尊心が邪魔をして理解しようとしない。

 

当時の要求は以下の様なものである。

1、素材を直視し最低限しか手を加えてはならない。

2、調味料も全て手作りで、既製品や加工品は基本的には使ってはいけない。

3、人が作ったメニューは参考にしてはいけない。

4、全ての素材の生産者にはコンタクトを取り会うこと。生産工手を理解すること。

5、右手に生産者、左手にお客様。

シェフの採用は難航したが、偶然当時フロレスタの顧問として在籍していたパテシィエがスイーツに対しては強力なクリエイションを持っていた。

半ば諦めかけていた時、「ここのシェフをしてみないか?」と尋ねたところ興味を示した。

知らないというほど強いものはない。

上記の要求がさほど難関とは思わず、さらに50隻のレストランを切り盛りする大変さも知らないままに引き受けてくれた。

 

前述したが、知らないというほど強いものはない。だが最も重要なことは脳の偏差が引き起こすクリエイションである。

僕の仕事はその様な環境を作り上げることだ。

 

シェフは決定した。神戸屈指のパティスリー、中村シェフ率いるダニエルでスイーツを担当していたパティシエール「池尻彩子」がシェフとなり、コドモは始動した。

食べ物に関する衛生上の知識を持ち合わせ、さらに味覚に対する知識、素材への判別能力、そしてなによりもダニエル譲りの素材に対する見極めは確固たるものがあった。

だが、料理に関してはズブの素人であった。

毎日届く素材を目にして途方にくれる日々が続いた。だが生命感に満ち溢れた本物の素材である。

仕事が深夜におよぶ日々、月を見ながら「アポロ計画で人類はあそこに手計算で行った。それに比べれば人類は数億年間の間、ほぼ毎日ご飯を作り続けたDNAがあるはずだ。その DNAは誰もが持っている。素材を直視しろ、DNAが目覚めるはずだ。本来、ご飯など誰にでも作れるはずだ。なん億年も作っているではないか!」という持論を展開していた。

本当に今でもそう思っている。

ほとんどの料理人が今目にしているものは、この半世紀の間に現れた食べ物の様なもので、さらに資本主義の方法論が先行していてDNAに基づくクリエイションが生かされる余地はない。

ズブの素人は3ヶ月あまり悪戦苦闘を繰り返しやがてDNAにもとづく感覚が見えてきた。

ズブの素人であることが幸いした。

 

当初のメニューには次の様なものがある。

店があった界近郊の優秀なトマト農家に朝引きのトマトを分けてもらい、塩二郎と京都菱六の麹で作った塩麹で会えただけの料理「トマトのシングルオリジン」

それを、野菜嫌いであった子供が食べた。

そして自生する山菜を柑橘系のコンフィチュールであえた料理。

これも子供達がばくばくと食べ親たちが驚いた。

たくさんの山菜を使用するので生産者も驚いて見にこられた。

「この様な料理は見たこともない。」と生産者達は興味を示し、僕たちは料理を通じて生産者との関係を次第に深めていくこととなった。

全ては自分たちの経験から学んだ。

 

新しいことを企てて行うことは楽しい。どの様な苦労が伴おうとも。開店から半年で自分たちがしなければならない仕事がおぼろげに見えてきた瞬間であった。

 

だが、人生は甘くない。

新しいレストランのコンセプトを実証に基づいた確立したスタイルとしてアーカイブを構築しそれをロジックとして書籍にまとめようとしていた矢先、僕は交通事故で重傷を負い一年に及ぶ入院生活を余儀なくされた。

 

人生は山あり谷あり。

しかし、人生すべて塞翁が馬である。

Johnさんの言葉、「Never Eat to Live. Live to Eat !」

第二の春、そう、食べるための人生が始まった。

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